イイタイダケ

言いたいだけです。

最近のお笑いはおもしろくない? 『知のリテラシー文化』を読んで気がついたこと

家にはテレビがありません。特に信念があるわけではなく、引っ越した際に買わなかっただけでなんです。そのまま7年の月日が経過しましが、特に不自由は感じていません。

 

最近のテレビはおもしろくない?

そのため、テレビを見ることはほとんどありません。そして実家などで久しぶりにテレビを見たときに、不思議に思ったことがあります。それはおもしろくないということです。特に最近のお笑い芸人さんで笑えたことがありません。ふと世の中から置いていかれたような、不思議な気持ちになりました。これはテレビやお笑い芸人さんのレベルが落ちたということでしょうか? そこである仮説が思い浮かびました。

 

笑うためには「お約束」の知識が必要

それは、笑うためには「お約束」を学ぶことが必要だということです。吉本新喜劇で育った関西人なので、昔の吉本を例にします。基本、芸人さんによって善人・悪人・美男・美女・お笑い担当は分かれています。役柄を交代することはまれです。よってこの芸人さんが言っていることは正しい・悪い・カッコイイ・カワイイ・おもしろいことなんだということがすぐにわかるんですね。

あの人が出てきたら笑う。この流れなら笑う。定番のギャグを言ったら笑う。毎週見る中で自然と学んできたことです。テレビをほとんど見なくなった私は、今のテレビの「お約束」を学ぶ機会が無くなってしまったのではないかと思うのです。

 

 

『知のリテラシー文化』

 なんてことを考えていたときに出会ったのが『知のリテラシー文化』という本です。

 「リテラシー」とは「読み書き能力」のことをいい、拡大してものごとを読み解く力と解釈します。「文化」とは「ごくふつうのこと」を指します。
本書はマンガ、ファッション、映画、音楽、建築、写真、絵画、美術工芸品、食文化、スポーツなどの、日常生活の中に浸透している「文化」の「リテラシー」について解説した本です。

 

 

どうしてマンガが読めるの?

「今の日本の子どもは、歴史的にみても世界的にみても複雑な「文法」を持つマンガの読み方を、5、6才から小学校4年生くらいまでの間に、学習しおえてしまう」

『知のリテラシー文化』

よく考えればすごいことですよね。文字ばかりの本を読むのが苦手でも、マンガなら読めるという人は多いのではないでしょうか。ちなみに、子どもがマンガを読めるようになるのは、知育雑誌が多大に貢献しているそうです。小学◯年生みたいなやつですね。

マンガにも「お約束」があります。たとえば「音喩」についてです。「音喩」とは従来の擬音語や擬態語の範疇に収まらない、マンガ特有の効果音のことです。有名なのは静かな状態を表す「シーン」ですね。実際に「シーン」と鳴っているわけはないのですが、私たちはそれを静寂と理解します。これはマンガの「リテラシー」を身につけているからできることです。



映画のカメラ目線問題

通常、リアリティーを追求する映画の画面で、カメラ目線はありえません。しかしミュージカル映画ではカメラ目線を多用することは珍しくありません。これも「お約束」ですね。あるジャンルでは禁止されている手法が、特定のジャンルでは許容されているという場合もあります。

 

「へー、その音楽好きなんだ」

個人の音楽的な好みの問題は、その好みを強調することで、他者との関係を規定し、自分の社会的な位置を確認することにもつながります。

『知のリテラシー文化』P.77

個人が趣味・趣向を通じて、ある特定の文化的、あるいは芸術的作品に正当性を認めたり、価値をおくことは象徴的闘争だ

ピエール・プルデュー『ディスクタンクシオン1・2』より
『知のリテラシー文化』P.77

 

 

思い当たることはありませんか? 

自分の趣味・趣向を通じて、他人との違いを見出し、自分を引き立たせることで、他人よりも優越した立場になろうと卓越化・差別化をはかろうとしているということなのです。

『知のリテラシー文化』P.77

文化的な正当性を強調することで支配的な階層秩序を保とうとする。

 『知のリテラシー文化』P.77

マイナーな曲を聴いている方が、趣味がいい、偉いみたいな風潮。メジャーな音楽を聴いている人に対するマウンティング。こんな心理的背景があったんだとおもしろく思いました。

 

 ちょっと長いのですが、本書で特に感銘を受けた文章を引用します。

自分の感動した音楽体験を誰かに伝えたいのに、「言葉では説明できない」、その感動を言語化できない、というもどかしさを覚えた経験があるでしょう。バルトは、音楽が言葉では語りえないところにこそ、価値があるとしたのです。私たちの生きる世界は言語によって分節化され、言語活動によって支えられています。しかし、音楽という形式が、この言葉で分節化された世界や言葉による意味作用を飛び越えて、直接私たちの身体に意味変化を生じさせる。これこそが音楽の美的体験であり、音楽を聞くことの感動や悦びであるあるというのです。
くわえてバルトは音楽的快楽に関係するのは与えられた意味ではなく、意味を作っていくこと、つまり意味形成の働きだといっています。私たちの音楽への喜ばしき反応は、意味自体に対する反応ではなく意味を作ることに対する反応だとします。

『知のリテラシー文化』P.81

音楽に対して持っている「言葉では説明できない」感覚の説明として、とてもしっくりきました。音楽だけではなく、様々な芸術作品や、自然の美しさ、人の優しさなどに触れたときの「言葉では説明できない」感覚もこのように言語化できないかなあと考えています。

 

写真とは視界の「フレーミング

Instagramのキラキラ女子はこの「フレーミング」が上手いイメージがあります。フレームの外にあるものもイメージできれば視野が広がりそう。

「公権力によるメディア・フレームのコントロール」という言葉にハッとしました。ニュースでもありますよね、悪意のある切り取り方をしたタイトルとか。

 

絵画と無意識の関係

シュルレアリスム=「心の純粋なオートマティスム(自動現象)」という表現に興味を持ちました。シュルレアリスムの出発点は自動記述の実験でした。自動記述とは、「熟考せず、スピードにのって自分の意識に浮かぶものを機械的に書くという方法」だそうです。これは自由連想法というフロイトの治療法からヒントを得たものなんですって。

これ、モーニング・ページにそっくり! とおどろきました。

aoio-o.hateblo.jp

シュルレアリスムフロイトの無意識の理論をはじめとする、当時の精神医学や精神分析への関心と芸術や文学についての思索が結びついて生まれたものなのだそうです。ちょうど今、心理学の本を読んでいるので、とてもわかりやすい。

対して、記号表現(意味するものシニフィアン)/記号内容(意味されるものシニフィエ)という内容が出てくるのですが、さっぱり理解できませんでした。これは私が記号論の「リテラシー」を持っていないからですね。これから勉強します。

 

食文化と健康

本書では、「健康」とは非常に曖昧な概念であることを指摘しています。米飯=日本人主食という考えも、古くからあるわけではないというのが意外でした。確かに、日本人全員が白米を食べられるようになったのって、そんなに古い話じゃないですよね。

義母がいわゆる自然派の人なんですね。自然=正しい。玄米=病気が治る。みたいな考えの人で。対して夫はいわゆる研究職なので、義母の情報は正確な実験データがないと言い喧嘩になるんです。これは「リテラシー」格差から起きる断絶ですかね。

 

『知のリテラシー文化』を読んで

大学の教科書として利用されることを想定して書かれた本です。どこの学部で学ぶ内容なのかな? 文学部? 社会学部? 私はこのような、記号論的な分野には疎いので、本書の内容はむずかしく感じました。まさに「リテラシー」がない状態ですね。でもおもしろかったので、これから勉強していきたいと思います。

そして私が立てた「お約束」がないから理解ができないのではないかという仮説が、「リテラシー」という言葉で説明されていて、スッキリしました。

 

リテラシー」格差

貧富の差が話題になってきていますが、これからは「リテラシー」の差も大きな問題になりそうですね。私はtwitterが好きでよく見ていますが、「リテラシー」に差がある人同士でまったく話がかみ合っていない状況をよく見かけます。「IQが20違うと会話が通じない」なんて話も聞きますが、それ以外にも共通する「文化」の「リテラシー」も必要ということですね。

私が英語を学ぶのも、単に言語を学びたいんじゃないんです。海外の文化を知りてたくて、でも文化というのは言語抜きには理解できないから学んでいるんです。まさに読み書きの意味の「リテラシー」と、「文化」を読み解く「リテラシー」の両方を身に付けたいと思っています。

 

これからの「リテラシー

最近思うのが、昔のように「みんなが知っている」ものが減ってきたのではないかということです。インターネットで各自の好みに特化した情報が手に入るようになっている一方、興味がない情報に触れる機会が減っているように思えます。私が子どもの頃の情報源といえば、テレビか新聞、雑誌だけでした。なのでいつもテレビに出ている人、新聞や雑誌に載っている話はみんなの共通の話題だったんですね。あ、ラジオを聴いていると通なんだみたいな風潮は、まさに「象徴的闘争」ですね。

これからはある分野の「リテラシー」は高いけど、別の分野の「リテラシー」は低い人というのもたくさん出てきそうだなあと思います。実際、ある分野では権威あるプロが、専門外ではおかしなことを言ってしまうなんて現象は見たことがあります。そうなると、もっと広い視野の「リテラシー」を学ぶ必要があるのかななんて考えています。